ふつうの人はCDなんてもう買わなくなった

How unfashionable to buy music CDs nowaday

General Johnson / Generally Speaking

1972年のアルバム、チェアメン・オブ・ザ・ボードの9枚組BOXセットに収録。

たしかに、チェアメン・オブ・ザ・ボードのアルバムといってまったく違和感なし。なんならジョンソンのヴォーカルだけが聞ける分、なお良い。・・・てか、チェアメン・オブ・ザ・ボードのヒット曲、何曲かそのまま収録してるんじゃんて、今、気がついたし。結果もちろん佳曲揃い。

(2) クラップ・ハンドな曲。(4) 甘茶。(5)、(6) とか、ふつうにチェアメン・オブ・ザ・ボードのヒット曲。もちろんグッド。

(7)も(9)も、おお、かっこええ。

 

1.Saginaw County Line
2.God's Gift To Man
3.It Was Almost Something
4.
Every Couples' Not A Pair
5.All We Need Is Understanding
6.Everything's Tuesday
7.I Never Get Tired Of You★
8.My Credit Didn't Go Through
9.Things Are Bound To Get Better Later On
10.Mary Lou Thomas

 

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このアルバムを聴きながら、ジョンソンの追悼記事(2010年)を翻訳してみる。アラン・トゥーサンと関係があったとは知らなかったなあ。

(Adam Sweeting, "General Johnson obituary," The Guadian, 17 Oct, 2010, Retrieved from https://www.theguardian.com/music/2010/oct/17/general-johnson-obituary)

 

67歳で肺がんで亡くなったジェネラル・ジョンソンは、グラミー賞に輝いたソングライターであり、チェアメン・オブ・ザ・ボードのリード・シンガーであった。このグループのもっとも有名なヒット曲、Give Me Just a Little More Time (1970年) は、彼らの名をポップの歴史に刻むことを確実にしたが、彼らの活動はジョンソンの死まで続けられた。彼はまた、Patches を作曲したうちのひとりでもあった。それは、家の責任を負わされることになった貧しい家庭の少年を歌った曲で、クラレンス・カーターによる大ヒットのあと、ジョージ・ジョーンズやアラバマらが録音している。

 

ジェネラル・ノーマン・ジョンソンは1943年、ノーフォーク(ヴァージニア)で生まれた。彼がジェネラルという名前を受け継いだ彼の父は、地元の海軍の造船所で働きながら、熱心なアマチュア・ゴスペル歌手として活動をしていた。彼は、自分がなりたかったプロのミュージシャンの道に進むよう、息子を励ました。「すべては父のおかげなんだ」と、ジョンソン・ジュニアは言っていた。「父は歌手になりたかったけれど、家族のためにあきらめたんだ。だから、父は僕の中に生きているんだ」

 

 ジョンソンは6歳のときに教会聖歌隊で歌いはじめ、それからThe Humdingers という地元のグループに参加した。マネージャーだったノア・ビッグスは、彼らをニューオリンズへ連れていき、作曲家・プロデューサーのアラン・トゥーサンと組ませたのである。アランは、彼らの名前を The Showmen に変えさせ、ヒット曲となった It Will Strand(1961)を作った。この曲はミント・レーベルで録音されて、いまでは知る人ぞ知るニューオーリンズのクラシックになっている。また、14歳でジョンソンは The Showmen に 39-21-40 という曲を書いて、その才能を開花させはじめていた。

 

1968年に The Showmen が解散した当初、ジョンソンはソロで活動しようと思っていたが、その計画を変更したのは、デトロイトの新しいレーベル、インヴィクタスに誘われたからである。それは、伝説的なモータウンの作曲家・プロデューサーチームであったホランド=ドジャー=ホランドが設立したレーベルであった。ジョンソンは、Showmenのメンバーだったダニー・ウッズに加えて、エディー・カーティスとハリソン・ケネディと一緒に、チェアメン・オブ・ザ・ボードを結成した。

 

彼らは、ジョンソンの魅惑的な「brrrt」ヴィブラートがくせになる、溌剌したデビュー曲 Give Me Just a Little More Time で成功を収めた。それはビルボードヒット100の三位にまで駆け上がり、100万枚以上を売りあげた。彼らは続く (You've Got Me) Dangling on a String と Everything's Tuesday をイギリスのトップ20にライク・インさせて人気を確実なものにするとともに、ジョンソン自身でもまた、 Pay to the Piper や Finders Keepers といったヒット曲を書いたのである。

 

彼はまた、他のアーティストにも曲を提供しはじめた。同じインヴィクタスのフリーダ・ペインには、反戦歌 Bring the Boys Home を書いた。ロナルド・ダンバーとは Patches を共同で書き、グラミー賞を受賞した。ジョンソンは、ホランド・ドジャー・ホランドに敬意を抱いていた。「作曲のしかたは彼らから学んだものだ。俺が書いた曲は、一年半のうちに600万枚売り上げたのだから、恩には報いたはずだ。俺はBMIの年間最優秀作曲家になったが、それはなかなか重たかったね」

 

しかし、いい時代は終わりに近づいており、インヴィクタスは分解しはじめた。レイモント・ドジャーは、ペインらと一緒にインヴィクタスを辞めた。ジョンソンは、チェアメン・オブ・ザ・ボードの名義をインヴィクタスが所有していて、もうレコードを作れないことに気がついた。彼は再度ソロでやることに決め、アリスタ・レーベルでは1979年のアルバム「ジェネラル・ジョンソン」でまずまずの成功を収めた。それからジョンソンはまた、ダニー・ウッズと再び組んで地元のヴァージニアとノースカロライナに戻り、ビーチ・ミュージックの巡回公演をはじめて、大衆向けのパーティ・タイムR&Bを演奏した。1980年の曲 Carolina Girls は、ビーチ・ボーイズのCalifornia Girls への遅れた一種のアンサー・ソングとして、この地域のアンセムにもなった。


「音楽ビジネスの憂鬱なしに音楽を楽しんだのは8年ぶりのことだった」と、彼は言っていた。「独占とも政治ともジャンル分けとも関係がない、自由で独立した音楽産業を見つけたんだ」。彼はレコード産業のごたごたに嫌気がさして、1981年にはモータウンの創業者ベリー・ゴーディと組む、実入りのいいオファーも断ったほどであった。ジョンソンは、3人のチェアメン・オブ・ザ・ボードを再結成して、ビーチ・ミュージックの客のために演奏を続け、All In The Family (2004年)や Soul Tapestry (2009年)など、独自の資金でアルバムを制作した。最新のアルバム Treasure Chest は、彼が死ぬ前に完成にいたったものである。彼のあとには、妻のジュリア、息子のノーマンとアントニオ、娘のソーニャが遺されている。